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2014年12月8日月曜日

なぜ論文を読み続けるのか

学生時代、ほとんど勉強してこなかった僕が教育や学ぶこと、に関して何かを言う資格が、あるのか、ないのか、という2つの選択肢で答えなければいけないのであれば、まず間違いなく「ない」でしょう。そんな偉そうなことを言えるほどに何かについてすべてを学んできたわけじゃありません。ただいろんな好奇心から、広く多くの事柄から何かを学んだような気がします。そんな僕が述べる勉強論ですから、まあ軽く聞き流していただいて、あ、これ使えるかも、っていう所が一つでもあったら幸いです。

実は僕は車の運転が苦手、と言うかペーパードライバーです。なんというかハンドルを握ると手に汗が噴き出して、事故を起こしたらどうしよう、みたいな強迫観念が襲ってくるわけですが、教習所に通っていたころは、そんなこともなく、マニュアルで自動車免許を取得したわけであります。そんな僕が言うのもなんですが、自動車教習所での危険予測トレーニングってありますよね。実はあれ、学びの本質だと僕は考えています。冒頭の流れからすると、もう全く説得力ないですね。
 
危険予測トレーニングって、今現在事故が起こりそうな場面にいるわけじゃないですよね。モニター(あるいは絵でしたっけ?)の前に座っているわけですから。危険予測トレーニングは、実際にその事態が発生しそうな時に、同時的に次に何をすれば良いかがわかる、そういった能力を鍛えることなんです。もし、縦列駐車している車と車の間から子供が飛び出したら、間違いなくこのスピードでは止まれない、そういった危険を回避するために恐る恐る進む、そうして何事もなければそれでいいわけですし、もし本当に子どもが飛び出して来たら、恐る恐るという振る舞いが、車を徐行運転にさせ、注意深く駐車している車と車の間を意識することで、飛び出してきた子供を視線は的確にとらえます。そして同時的にブレーキを踏みこみ、安全に停車できる。そういった能力を鍛えるのが危険予測トレーニングなんですよね。

僕はお寺や神社が好きなのですが、歴史的なものや建築に興味があるだけじゃなくて、やはり祈りの姿勢というか、畏れの感覚というか、“恐る恐るというような振る舞い”、そういったものの感度を高めたいと思うのです。自分がいかに無力な存在であるか認識することで、自分の能力を超えたものにどう向き合うか、祈りを通して、そういった思考を鍛えたいと思うんです。

 何が起こるかわからない、何に遭遇するかわからないけれど、その事態が起きたときにどうすればよいのかわかる。そういった能力は重要です。例えば臨床現場でも、ある患者さんや医師からの問い合わせに、どう臨床判断すればよいかわかる、そういったトレーニングが臨床能力を鍛えることの根幹ではないでしょうか。どのような問い合わせが来るのかわからない中で、それに対する対応能力を如何に鍛えるのか。薬剤師の臨床教育に欠けているこのような「学ぶ仕方」なんだと僕は思います。

 医学論文を読みながら医療にかかわるその方法論をEBMと言いますが、薬について学ぶには、このEBMの手法が限りなく強力な手段になります。なぜ薬剤師が論文を読むのか、それも継続して読み続けなければいけないのか、そういったことを先月お話しさせていただく機会を得ました。これは僕が最近考えていたことなんですが、公にお話しするのは実は初めての経験でして、非常にわかりにくくなってしまったかもしれません。しかしながら大変重要なことだと思いますので、あらためてここで言語化していきたいと思います。

日々積み重ねられていく論文情報を全て学びつくすなんてことは到底不可能です。だから本来は、知識習得のために論文を読むわけではありません。論文情報を学ぶことでも暗記することでもなく、必要な時に、必要な情報を活用できるよう、整理しておくことなんですよね。これを僕は論文情報と臨床行動のスクリプト化とよんでいます。EBMの手法を用いた継続的な学習の本質とはいざその臨床現場に遭遇した時に同時的にスクリプトが引き出せるように、その能力を鍛えることろにあるわけです。

スクリプトと何か、ということですが、スクリプトとは、典型的状況で人間が想起する一連の手続きを表現する台本のようなもののことです。ヒトは社会生活で必要な知識をスクリプトの形で記憶にため込むと言われています。たとえばファミリーレストランで食事をするのは何もまごつくことなく食事をして帰ることができますが、高級ホテルではどうしたらよいかまごつきますよね。これは高級レストランで食事をするという仕方のスクリプトが形成されていないからなんです。

読んだ論文が、役にたつかどうかは今は分からないけれど、それが役に立つであろうものであると先駆的に知ることができる、そういった能力を鍛えることが『学ぶ』うえで大切なのではないかと考えています。論文を読み続けて何になる、そういわれたこともありました。ですが、いざその臨床現場に遭遇した時に同時的にエビデンスが引き出せるかどうかなんですよ。そのために、役にたつかどうかは今は分からないけれど、それが役に立つかもしれない。必要なものを調達するのではなく、これは何かの役にたつかもしれない。そんな感覚が大事なんです。自分が今していることの意味は事後的に分かる。後ろを振り向いたときに、はじめて点がつながる。そういう構造になっているんです。

だから臨床経験がなくても臨床を“危険予測トレーニング”のような仕方で学ぶことはできるんです。確かに実際の現場で経験することのほうが大事ですが、事実上経験できない環境にいるならば、EBMの手法で仮想臨床を学ぶことができる、そして学生でもある程度臨床能力を鍛えることができるるのではないかと思っています。何も大学附属病院の薬剤師だけが高度な臨床スキルを得られるわけじゃない。誰でも臨床能力を鍛えることができる。それがEBMの手法で学び続けることのすごさなのです。

では、なぜ教科書じゃなくて、臨床医学論文で学ぶのか。教科書のほうが分かりやすくきれいにまとまっているし覚えやすい、なんて思いますよね。ただ繰り返して言いますが、学びの本質は知識の暗記ではなく、学びの仕方を学ぶという事なんです。それともう一つ、臨床で遭遇する疑問、問題はその多くが前掲疑問です。教科書に記載されているような背景疑問に答えるものではありません。臨床医学論文は臨床疑問に対する一定の示唆を与えてくれるものです。そこから想定しうる臨床現場を容易に想像することが可能です。したがって論文情報に記載されている情報の信頼度を吟味し、類似情報を集め、これまで学んだ背景知識との融合を加え、そのテーマに対する臨床スクリプトをため込むというコトを継続的に行うことで、いざのそのテーマの問題が目の前に提起されてきたときに、同時的に臨床判断ができるということにつながるのではないかと考えています。


実際はそう単純じゃないのですが、少なくとも薬が効くとはどういうことかを学ぶためにはEBMの手法は必須であると断言できます。日常業務で遭遇しうる「重要な問い」に対してアンダーラインを引くこと、そしてそのことがなぜ「重要な」ものとして取り出されたのか、そのテーマに対する多面的な思考につながる、そういったことに気付くからです。

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