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2014年8月15日金曜日

全体を見つめ直す方法~「健康第一」は間違っている~

僕が臨床医学論文を初めて意識したのが2011年の初夏のころ、そしてEBMevidence-based medicine)と出会い、EBMを学び始めたのがその年の9月でした。
それ以来、僕は薬剤師が実践するEBMの模索を続けてきました。今振り返れば、僕は大学卒業後、薬剤師としてろくに勉強もせず、ただルーチンワークをこなす日々でしたが、EBMと出会い、そこから学んだ事の多さに気づきます。いやEBMから学んだというのは少しちがうのかもしれません。

[「健康第一」は間違っている]

先日、筑摩選書から出版された一冊の本をご紹介したいと思います。


著者の名郷先生は東京で開業する家庭医であり、EBM実践とその教育の第一人者であり、僕にとってはEBMの師であり、職種こそ違うものの医療者としての師でもあります。明治薬科大学の生涯学習講座にて、名郷先生のワークショップに参加し、EBMについて学び始めたことが僕の薬剤師人生を大きく変えたのだという事が今となっては明確です。薬剤師としての新たなスタートだったと言えましょう。病態生理学や薬理学など薬剤師にとって非常に重要であり、学生時代の「常識」として学んできた、そういった基礎知識と臨床医学論文が示すそのギャップに大きく魅かれたという面もありますが、EBMの実践を通して名郷先生が考察していく医療構造そのものに興味を持ったという事が大きかったのだと思います。

EBMを学び薬剤師としてその実践を模索してきた、この約3年の間に師から学んだことの多くがこの本に書かれており、文章一つ一つが懐かしくもあり、新鮮でもあり、また今まで、理解に至らなかった部分がより鮮明になってきたようにも感じます。

[健康長寿世界一の国、日本において、いまだ健康ブームは続く]
物の見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している認識は僕らが属している集団における関心や価値観に他ならない。そういった文脈から自由になることで失ったものを取り戻す。本書で示しているのは一貫してこういったことのように思います。僕らが属する社会集団が無意識に排除してしまった現象に焦点を当てていくことで全体を取り扱う方法を提示していきます。

本書の冒頭では日本人の生命曲線が示されています。20128月に武蔵国分寺公園クリニック主催で開催された勉強会でも取り上げられたテーマです。
日本人の生命曲線は60歳あたりまでは、フラットな状態ですが、70歳を過ぎるころから生存率が急降下している、そういった曲線を示しています。

年齢とともに直線的に死亡が減るのではなく70歳という一時点を境に急激に死亡が増える、長寿国として世界一を誇る国民の生命曲線を眺めることで見えてくることは何でしょうか。そこには医療の限界が世界一の長寿国と言う形で既に達成されてしまっている、そういった現実を如実に示しているようにも思えます。にもかかわらず、世の中は変わらず健康長寿を目指すことこそが正しいというような社会認識をいまだ強固なものとしています。健康欲は果てしない、そういった構造が見て取れます。

[健康長寿と幸せ]
「健康が第一だから」とは僕が幼少のころよく聞かされたような気もしています。勉強ができなくてもいい、失敗してもいい、病気にならず健康でいればそれだけでいい。単に親の願いだったのかもしれませんが、病気になれば学校を休まねばならず、友人とも遊ぶことが出来ない、楽しい時間は健康を損なう事で失われる。だから健康こそ大事だというのは子供のころから聞かされていても何の違和感も持ちません。ただ年齢を経て、大人になるに従い、そして、高齢になるに従い、健康であることと幸せであることの剥離がでてくる、そんなデータを本書は提示します。

日本人は15歳から幸福度は上昇することがないという衝撃的なデータと健康長寿世界一というギャップをどう取り扱うか。幸せかどうかは個々個人の状況、すなわち文脈によるという見方もできます。例えば、長生きすることこそ幸福だと信じている人もいれば、もう死んでもいいと思う人もいる。それは人それぞれであり、健康長寿が幸福ではない、などと一概に言えないのではないか、と言う指摘です。

まさに本書が提示するのは、そういった問題なのかもしれません。文脈が大事だと言うのは全体のなかの一部に関心があるに過ぎない、文脈を考慮してしまえば長寿には大きな意味があるなんてことが簡単に言えてしまうという事です。医療を受け健康長寿であることが正しいという一般的な認識に対して、健康長寿である日本で、年齢を経るに従い幸福度が減少するというデータをあえて文脈を考慮せず対峙させていきます。文脈に依存したデータの解釈ではなく、文脈から離れたところで多面的にデータを評価したという文脈に基づく解釈こそ重要。EBM実践における論文の批判的吟味に際しても、僕が名郷先生から学んだことはまさしくこういったことではなかったか、あらためて気づかされます。

[医療介入の効果に対する一般認識とエビデンスのギャップ]
本書では高血圧治療や糖尿病治療に関するエビデンスを通して実際の医療とのギャップを示していきます。

“「統計的に有意な差がある」等に代表されるエビデンスを表現する言葉は、案外、元の現象とのギャップが大きいかもしれない”

実際に論文が示す結果は曖昧であり、曖昧であるがゆえに情報の解釈は情報を作る側の価値観によっていくらでも肯定的に、あるいは批判的に示すことができる。そういった現実が確かにあるという事を示していきます。例えば降圧薬により死亡リスクが20%減少という相対リスクが示す数字のインパクトよりも、降圧薬によりどのくらい死亡が先延ばしされたのかを考える方がよりリアルです。そしてその先延ばし効果も実はそれほど明確では無かったり、現実的にそれほど大きな差が無かったりするわけです。

また検診や認知症の早期介入を例に、健診の負の側面、早期介入の負の側面に焦点を当てていきます。病気を早く見つけ、早く医療を受けるという事のメリットこそ強調されるという社会的合意はかなり強固なものです。しかしながらそういった価値観という文脈に従った医療はむしろ検診を受ける、という選択肢しかなくなり、医療を受ける選択の幅が狭められているという構造が浮き彫りとなっていきます。

[病気と時間とそのスピードと]
病気と言われている現象、特に慢性疾患は時間とともに身体に現れる現象が変化し、それは緩やかなものです。また加齢そのものも身体に現れる変化です。その変化に対してどちらのスピードを重視するのか、そのような選択の中で、病気と言われている現象変化のスピードのみが重視されているのではないか、僕はそのように思います。癌検診をうけ早期にがんが見つかり、癌の摘出をうけ、癌は根治したけれども肺炎で死んでしまった。「加齢とは死に方の多様性」という師の言葉が心にしみます。“長寿を目指す、健康を目指すという行き先は、実は多様なのである”という現実がこの高齢化社会には確かに存在します。高齢化という死に方の多様性の中で一つの疾患だけを取り出して考えても、現実との薄利はどうしようもありません。現代の医療の限界は生命曲線が示す通りです。

[時代とともに変わりゆく医療と死を受け入れる事の認識変化]
時代ともに変わる医療とそれを受け入れる人々の認識を示しながら、死ぬことを受け入れる事がなんの違和感もなく受け入れる事ができた時代から、死なせない医療への変化。死なせない医療がもたらした人々への生存欲の変化。そして健康長寿を達成してしまったこの世界で、今あらためて死ぬことを受け入れるという選択。健康を得るための医療、言い換えれば生存欲をかなえるための医療から、死ぬからこそある医療への転換。
健康になりたい欲望と、おいしいものを食べたい、喫煙したいという欲望は等価である。どちらもうまくコントロールすること、そしてコントロールをするという事すらなくなるような方法こそが重要であると締めくくります。

[文脈を捨てるという事]

文脈とは恣意的な価値観に他ならないという事に気づかされます。そして恣意的な価値観に基づき、物事の「部分」に焦点を当てたに過ぎないものが文脈です。むしろその文脈がなぜ焦点を当てられたのか、そういったことを考察することこそ肝要であると著者は繰り返し訴えます。文脈に依存しないものの考え方見方、一定の価値観のもと排除されてしまった「部分」にも焦点をあて、全体を取り扱う方法の大切さ、文脈によって見失ったものを文脈から自由になることで取り戻す、もう一度本書を読み返しながら、考えていきたいと思います。「どうでもいいという立ち位置から、多面的に評価することこそ重要である」師の言葉を思い出しながら。

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