[お知らせ]


2014年8月31日日曜日

薬剤師のジャーナルクラブの1周年特別配信のお知らせ

薬剤師のジャーナルクラブは9月で立ち上げ1周年を迎えます。

[薬剤師のジャーナルクラブこれまでの活動]
2013年9月6日
薬剤師のジャーナルクラブ立ち上げ
同日
公式Facebookページ設立
2013年9月16日
スカイプ、ツイキャス配信テスト実施
2013年9月29日
第1回配信:抄読会第1回「82歳の高血圧は治療すべき?」
2013年10月27日
第2回配信:抄読会第2回「2型DMとアスピリン」
2013年11月17日
第3回配信:抄読会第3回「喘息の吸入薬は長い間使っても安全?」
2013年12月1日
第4回配信;抄読会第4回「喘息の吸入薬は長い間使っても安全?その2」
2014年1月19日
第5回配信:抄読会第5回「糖尿病検診は受けた方がいい?」
2014年2月16日
第6回配信:抄読会第6回「検査で陰性なのにインフルエンザって?」
2014年3月24日
第7回配信:抄読会第7回「花粉症にステロイド点鼻薬は毎日使うべき?」
2014年4月20日
第8回配信:抄読会8「軽度大動脈弁狭窄症ではコレステロールを下げた方が良い?」
2014年5月9日
リアルWS抄読会ワークショッ(岡山)
2014年5月11日
プライマリケア連合学会ポスター発表
2014年5月25日
第9回配信:抄読会9「禁煙補助薬で簡単に禁煙できるの?」
2014年6月22日
第10回配信:抄読会10「葛根湯は総合感冒薬よりもよく効くの?」
2014年7月13日
第11回配信:抄読会11「溶連菌感染症に用いるべき抗菌薬とは?」
2014年7月14日
2014年8月3日
2014年8月15日
2014年8月24日
第12回配信:抄読会12「溶連菌感染症に用いるべき抗菌薬とは?その2」

おかげさまで、1年の間に、計12回の抄読会配信とリアルワークショップを岡山にて開催いたしました。またプライマリケア連合学会ではこの取組をポスターにまとめ、発表してまいりました。さらに医学書院週刊医学界新聞にも取り上げていただきました。
8月には、CMECジャーナルクラブが主催するCMECワークショップとのコラボレーションもさせていただきました。また当ジャーナルクラブコアメンバーでツイキャス司会担当の桑原先生による特別企画、富士山単独登山での抄読会企画も無事に成功しました。
視聴者の皆様に支えられ、ここまで継続して活動に取り組むことができました。この場を借りまして感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
立ち上げ1周年を記念いたしまして、この1年間の振り返りを次回配信にて行いたいと思います。是非、皆様のご意見を配信中に投稿していただければ幸いです!

ツイキャス配信日時:平成2697日(日曜日)
■午後2045分頃 仮配信
■午後2100分頃 本配信
なお配信時間は90分を予定しております。

※フェイスブックはこちらから→薬剤師のジャーナルクラブFaceBookページ
※ツイキャス配信はこちらから→http://twitcasting.tv/89089314
※ツイッター公式ハッシュタグは #JJCLIP です。
ツイキャス司会進行は、精神科薬剤師くわばらひでのり@89089314先生です!
ご不明な点は薬剤師のジャーナルクラブフェイスブックページから、又はツイッターアカウント@syuichiaoまでご連絡下さい。


薬剤師のジャーナルクラブ(Japanese Journal Club for Clinical Pharmacists:JJCLIPは臨床医学論文と薬剤師の日常業務をつなぐための架け橋として、日本病院薬剤師会精神科薬物療法専門薬剤師の@89089314先生、臨床における薬局と薬剤師の在り方を模索する薬局薬剤師 @pharmasahiro先生、そしてわたくし@syuichiao中心としたEBMワークショップをSNS上でシミュレートした情報共有コミュニティーです。

2014年8月29日金曜日

疫学のススメ

[疫学の魅力]
疫学と言うのはあまり聞きなれない言葉ではあります。一言で言えば「ヒトの集団における健康状態とそれに関連する要因の分布を明らかにする学問」と言えそうです。薬学部カリキュラムでは僕らの時代(4年生薬学部)は主に衛生薬学分野の公衆衛生学の一部として学んだはずなのですが、卒後に継続的に学ぶような機会もなく、その重要性は臨床疫学を学問的基盤としたEBMと出会うまでよく分かりませんでした。

疫学の歴史として最初に取り上げられるのがジョン・スノウとコレラの話かもしれません。世界初の疫学調査とも言われているジョン・スノウがとった対策は1852年のロンドンでコレラ流行の際、コレラ死亡者数を減少させたと言われています。


               (ジョン・スノウ)

スノウはコレラで死亡した患者の居住地を地図上にプロットしていきます。そして患者がある特定の井戸の周囲に集中していることを発見しました。そしてこの井戸を封鎖したところ患者が減少したのです。そして、ロンドンに水を供給している2つの水道会社を比較し、一方の水道会社から供給される水が危険因子であることも指摘しました。この2つの水道会社はテムズ川の水を水源としていましたが、一方は上流から、もう一方は下流から水を取水していました。当然ながらロンドン市民のし尿は、当時そのままテムズ川に垂れ流されていました。

このジョン・スノウは、観察によって原因を推定し、データを集めて分析することで因果関係を類推するという手法を用いてコレラの感染拡大を防いだのです。驚くべきはコレラ菌がコッホにより発見されるのは1883年であり、スノウが対策をとった30年もあとになってからなのです。このことが示唆する疫学的思考の大事なポイントは疾患の発生メカニズムが分からなくても暴露と疾患発生の関連が明らかであれば予防は可能だということです。

疫学では暴露と疾患発生の関連に注目しますが、その過程についてはあまり重視していません。もちろんメカニズムが分かっていた方が因果関係を類推するのに強力な補助線となりますが(後述)、疫学的手法を用いれば、メカニズムを解明しなくても関連の強弱を論じることができるのです。

[疫学的手法]
曝露と疾患の発生の関連を検討する際に用いる疫学的手法は大きく6種類です。(分類は恣意的です。教科書などによりばらつきがあるかもしれませんが、僕は6つに整理しておこうと思います)簡単にまとめると以下のような感じです。(簡単すぎて怒られそうですが…。)


研究手法
ポイント
記述疫学
疾患頻度(暴露を考慮しない)の状況
生態学的研究
集団暴露と疾患頻度(関連の推定)
横断研究
一時点(時間の考慮なし)の疾患頻度と暴露の状況
コホート研究
時間を考慮した疾患頻度と暴露の関連
(関連の強さを検討できる)
症例対照研究
介入研究

各研究の詳細はもはやここでは述べませんが(コホート研究症例対照研究は過去記事参照)各手法にはそれぞれ利点と欠点があって、EBM実践においてよく取り上げられるようなエビデンスレベルみたいなものは、僕自身ではあまり意識していません。例えば疾患発生の妥当性は症例対照研究で優れていますし、暴露情報の妥当性はコホート研究で優れています。

疾患頻度に応じてコホートか症例対照研究の選択を迫られる際には記述疫学データが必須となりますし、環境汚染などの暴露のように個人を解析することが難しい場合は生態学的研究を用いるわけです。

ランダム化比較試験のような介入研究は暴露と疾患発生の関連を調べるうえで強力な手法と言えますが、明らかな関連が期待できない場合は、コストの面から研究を進めることができず、明らかな関連がある場合には、倫理的に研究ができないというジレンマを抱えています。

[疫学の強み]
医薬品とその人に対する安全性有効性の因果関係を決定づけることは並大抵のことではありません。しつこいようですが、その関連を検討する際に強力な武器となるのが疫学的手法です。以下は薬剤使用とその有害事象の因果関係を類推する手順として僕が考慮に入れる項目をまとめたものです。因果関係の推定に関しては疫学の教科書にその詳細が記載されており、以下はあくまで私見です。

薬剤曝露と有害事象との間に関連性があるか?

①臨床的観察(症例報告や記述疫学)から関連性が疑われる
②疫学的検討
・症例対照研究
・コホート研究
・倫理的に可能であればランダム化比較試験(益をもたらすと思われる要因のみ)

コントロール群に対する薬剤群のハザード比やオッズ比等の相対リスク指標から関連性の強さを検討する。関連性が強い場合にはその関連性に因果関係があるのか推論する。

薬剤曝露と有害事象との間に因果関係があるか?

①疫学的考察関連の強さ
(関連が強いほど因果関係である可能性多高くなる。但し、バイアス、交絡に注意。あくまで関連の強さを検討する際に有用であり、因果関係を決定づけるものではない。研究精度はもとより研究妥当性の考慮を忘れてはならない)

②薬物動態学的考察時間的関係、量-反応関係暴露(介入)停止の効果
(血中濃度の変動や、投与中止、用量増減により関連性が相関するのであれば因果関係である可能性は高くなる)

③病態生理学的・薬理学的考察生物学的妥当性
(観察された関連が生物学的知識と矛盾しないか≒基礎研究の結果との一致があれば因果関係である可能性は高くなる)

④化学構造的考察他の知見との一致
(類似化合物でも同様の関連が認められる場合、因果関係である可能性は高くなる)

急性の中毒症状を除けば関連の強さを具体的な数値で定量的に検討できるのは疫学的考察のみであり、他の学問的考察からは関連の強さを評価することは困難です。関連が低ければ、そもそも因果関係を論じることが難しくなります。薬物動態、病態生理、薬理学、有機化学などはいずれも因果関係である可能性を検討する際に必須の学問ではありますが、関連性の強弱を具体的な数値で評価できるものではありません。

以上のようなことは何も薬の副作用に限った話ではありません。生活習慣と疾患発生、薬剤服用と寿命、健康診断等のスクリーニングと寿命、疾患と寿命など、疫学は様々な「暴露(あるいは介入)」と「予後」の関連を検討することができるのです。

[現実世界での疫学の活用]
2011年東日本大震災において原子力発電所の事故で放射線に被曝した住民と健康影響に関して、いまだネット上では様々な情報が飛び交っています。癌が増えたなどと言うのは、ある程度年月を経ないとよく分からないということしか言えません。ネット上で飛び交う情報に関して因果関係を決定づけるような根拠は現時点で存在しません。また関連の強さを検討したデータも存在しません。


今やるべきは、憶測により様々な情報をむやみに発信することではなく、住民の放射線曝露状況の正確な把握とその追跡方法の確立に他なりません。いずれ癌で死ぬ人は出てくるでしょう。(当たり前ですが、日本人死亡原因約30悪性腫瘍です)その人数が原発事故による放射線曝露の有無で通常よりも多いのかどうか比較検討する(関連の強さを検討する)ことが大事なのです。

2014年8月15日金曜日

全体を見つめ直す方法~「健康第一」は間違っている~

僕が臨床医学論文を初めて意識したのが2011年の初夏のころ、そしてEBMevidence-based medicine)と出会い、EBMを学び始めたのがその年の9月でした。
それ以来、僕は薬剤師が実践するEBMの模索を続けてきました。今振り返れば、僕は大学卒業後、薬剤師としてろくに勉強もせず、ただルーチンワークをこなす日々でしたが、EBMと出会い、そこから学んだ事の多さに気づきます。いやEBMから学んだというのは少しちがうのかもしれません。

[「健康第一」は間違っている]

先日、筑摩選書から出版された一冊の本をご紹介したいと思います。


著者の名郷先生は東京で開業する家庭医であり、EBM実践とその教育の第一人者であり、僕にとってはEBMの師であり、職種こそ違うものの医療者としての師でもあります。明治薬科大学の生涯学習講座にて、名郷先生のワークショップに参加し、EBMについて学び始めたことが僕の薬剤師人生を大きく変えたのだという事が今となっては明確です。薬剤師としての新たなスタートだったと言えましょう。病態生理学や薬理学など薬剤師にとって非常に重要であり、学生時代の「常識」として学んできた、そういった基礎知識と臨床医学論文が示すそのギャップに大きく魅かれたという面もありますが、EBMの実践を通して名郷先生が考察していく医療構造そのものに興味を持ったという事が大きかったのだと思います。

EBMを学び薬剤師としてその実践を模索してきた、この約3年の間に師から学んだことの多くがこの本に書かれており、文章一つ一つが懐かしくもあり、新鮮でもあり、また今まで、理解に至らなかった部分がより鮮明になってきたようにも感じます。

[健康長寿世界一の国、日本において、いまだ健康ブームは続く]
物の見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している認識は僕らが属している集団における関心や価値観に他ならない。そういった文脈から自由になることで失ったものを取り戻す。本書で示しているのは一貫してこういったことのように思います。僕らが属する社会集団が無意識に排除してしまった現象に焦点を当てていくことで全体を取り扱う方法を提示していきます。

本書の冒頭では日本人の生命曲線が示されています。20128月に武蔵国分寺公園クリニック主催で開催された勉強会でも取り上げられたテーマです。
日本人の生命曲線は60歳あたりまでは、フラットな状態ですが、70歳を過ぎるころから生存率が急降下している、そういった曲線を示しています。

年齢とともに直線的に死亡が減るのではなく70歳という一時点を境に急激に死亡が増える、長寿国として世界一を誇る国民の生命曲線を眺めることで見えてくることは何でしょうか。そこには医療の限界が世界一の長寿国と言う形で既に達成されてしまっている、そういった現実を如実に示しているようにも思えます。にもかかわらず、世の中は変わらず健康長寿を目指すことこそが正しいというような社会認識をいまだ強固なものとしています。健康欲は果てしない、そういった構造が見て取れます。

[健康長寿と幸せ]
「健康が第一だから」とは僕が幼少のころよく聞かされたような気もしています。勉強ができなくてもいい、失敗してもいい、病気にならず健康でいればそれだけでいい。単に親の願いだったのかもしれませんが、病気になれば学校を休まねばならず、友人とも遊ぶことが出来ない、楽しい時間は健康を損なう事で失われる。だから健康こそ大事だというのは子供のころから聞かされていても何の違和感も持ちません。ただ年齢を経て、大人になるに従い、そして、高齢になるに従い、健康であることと幸せであることの剥離がでてくる、そんなデータを本書は提示します。

日本人は15歳から幸福度は上昇することがないという衝撃的なデータと健康長寿世界一というギャップをどう取り扱うか。幸せかどうかは個々個人の状況、すなわち文脈によるという見方もできます。例えば、長生きすることこそ幸福だと信じている人もいれば、もう死んでもいいと思う人もいる。それは人それぞれであり、健康長寿が幸福ではない、などと一概に言えないのではないか、と言う指摘です。

まさに本書が提示するのは、そういった問題なのかもしれません。文脈が大事だと言うのは全体のなかの一部に関心があるに過ぎない、文脈を考慮してしまえば長寿には大きな意味があるなんてことが簡単に言えてしまうという事です。医療を受け健康長寿であることが正しいという一般的な認識に対して、健康長寿である日本で、年齢を経るに従い幸福度が減少するというデータをあえて文脈を考慮せず対峙させていきます。文脈に依存したデータの解釈ではなく、文脈から離れたところで多面的にデータを評価したという文脈に基づく解釈こそ重要。EBM実践における論文の批判的吟味に際しても、僕が名郷先生から学んだことはまさしくこういったことではなかったか、あらためて気づかされます。

[医療介入の効果に対する一般認識とエビデンスのギャップ]
本書では高血圧治療や糖尿病治療に関するエビデンスを通して実際の医療とのギャップを示していきます。

“「統計的に有意な差がある」等に代表されるエビデンスを表現する言葉は、案外、元の現象とのギャップが大きいかもしれない”

実際に論文が示す結果は曖昧であり、曖昧であるがゆえに情報の解釈は情報を作る側の価値観によっていくらでも肯定的に、あるいは批判的に示すことができる。そういった現実が確かにあるという事を示していきます。例えば降圧薬により死亡リスクが20%減少という相対リスクが示す数字のインパクトよりも、降圧薬によりどのくらい死亡が先延ばしされたのかを考える方がよりリアルです。そしてその先延ばし効果も実はそれほど明確では無かったり、現実的にそれほど大きな差が無かったりするわけです。

また検診や認知症の早期介入を例に、健診の負の側面、早期介入の負の側面に焦点を当てていきます。病気を早く見つけ、早く医療を受けるという事のメリットこそ強調されるという社会的合意はかなり強固なものです。しかしながらそういった価値観という文脈に従った医療はむしろ検診を受ける、という選択肢しかなくなり、医療を受ける選択の幅が狭められているという構造が浮き彫りとなっていきます。

[病気と時間とそのスピードと]
病気と言われている現象、特に慢性疾患は時間とともに身体に現れる現象が変化し、それは緩やかなものです。また加齢そのものも身体に現れる変化です。その変化に対してどちらのスピードを重視するのか、そのような選択の中で、病気と言われている現象変化のスピードのみが重視されているのではないか、僕はそのように思います。癌検診をうけ早期にがんが見つかり、癌の摘出をうけ、癌は根治したけれども肺炎で死んでしまった。「加齢とは死に方の多様性」という師の言葉が心にしみます。“長寿を目指す、健康を目指すという行き先は、実は多様なのである”という現実がこの高齢化社会には確かに存在します。高齢化という死に方の多様性の中で一つの疾患だけを取り出して考えても、現実との薄利はどうしようもありません。現代の医療の限界は生命曲線が示す通りです。

[時代とともに変わりゆく医療と死を受け入れる事の認識変化]
時代ともに変わる医療とそれを受け入れる人々の認識を示しながら、死ぬことを受け入れる事がなんの違和感もなく受け入れる事ができた時代から、死なせない医療への変化。死なせない医療がもたらした人々への生存欲の変化。そして健康長寿を達成してしまったこの世界で、今あらためて死ぬことを受け入れるという選択。健康を得るための医療、言い換えれば生存欲をかなえるための医療から、死ぬからこそある医療への転換。
健康になりたい欲望と、おいしいものを食べたい、喫煙したいという欲望は等価である。どちらもうまくコントロールすること、そしてコントロールをするという事すらなくなるような方法こそが重要であると締めくくります。

[文脈を捨てるという事]

文脈とは恣意的な価値観に他ならないという事に気づかされます。そして恣意的な価値観に基づき、物事の「部分」に焦点を当てたに過ぎないものが文脈です。むしろその文脈がなぜ焦点を当てられたのか、そういったことを考察することこそ肝要であると著者は繰り返し訴えます。文脈に依存しないものの考え方見方、一定の価値観のもと排除されてしまった「部分」にも焦点をあて、全体を取り扱う方法の大切さ、文脈によって見失ったものを文脈から自由になることで取り戻す、もう一度本書を読み返しながら、考えていきたいと思います。「どうでもいいという立ち位置から、多面的に評価することこそ重要である」師の言葉を思い出しながら。

2014年8月14日木曜日

抗精神病薬と薬剤性口顎ジストニア

抗精神病薬の副作用として錐体外路症状は有名ですが、そのうち口顎にジストニアを発症したと考えられる症例報告が日本顎関節学会雑誌に掲載されています。その臨床的所見から薬剤性を疑うのは初診時にはなかなか難しい印象もあり、救急の現場における薬剤師の関わり方がほんの少し見えてきそうな報告です。

[症例出典]
抗精神病薬による薬剤性口顎ジストニアの1

[症例]
患 者20 代の女性。
主 訴顎関節脱臼および顎の痛み。
既往歴初診時医療面接時には特記事項なし。
家族歴特記事項なし。
現病歴2013 4 月,上記主訴により救急車を要請し、救急科に搬送。救急科で採血と CT 撮影の後、右側顎関節脱臼の診断でプロポフォール鎮静下に徒手的顎関節脱臼の整復が行われた。しかし,覚醒直後に再度脱臼したとのことで口腔外科に診療要請。

20代の女性があごの痛みを訴え救急搬送。救急診療部にて右側顎関節脱臼の診断で脱臼の整復処置が行われたものの、再度脱臼が発生し口腔外科へコンサルされた症例です。

[全身所見]
・意識清明
・バイタル血圧 130/90 mmHg、脈拍 83 回分、体温 36.9℃ 、血液検査データは正常
範囲内
・左側前腕にリストカット痕
[顔貌所見]
開眼失行,眼球上転
[顎口腔所見]
左側咬筋,外側翼突筋の過緊張を認め,会話困難。徒手的な強制開口が非常に困難。両側ともに顎関節部の陥凹はなく、顎位は閉口状態であり、脱臼は疑われず下顎の右方偏位をきたしていた。

バイタルは正常。血液検査の結果に大きな異状は見当たりません。左腕にリストカット痕があることから、何らかの精神疾患を罹患している可能性、精神科もしくは心療内科を受診し、向精神薬などの薬剤を服用している可能性が示唆されます。また左側咬筋,外側翼突筋の過緊張、開口困難、眼球上転から錐体外路症状、特にジストニアが疑われます。

[経過]
救急科医師と相談し,患者の年齢,リストカット痕などの所見より,全身疾患や薬剤性などの二次性口顎ジストニアを強く疑い,病歴の再聴取を行った。その結果,統合失調症にてプロクロルペラジン,ブロナンセリン 2 剤を内服していることが判明した。

使用薬剤の副作用(添付文書より抜粋)
■プロクロルペラジン(ノバミン®
その他の副作用:ジストニア(眼球上転,眼瞼痙攣,舌突出,痙性斜頸,頸後屈,体幹側屈,後弓反張,強迫開口等)
■ブロナンセリン(ロナセン®
その他の副作用:ジストニア(痙攣性斜頚、顔面・喉頭・頚部の攣縮、眼球上転発作、後弓反張等)

ジストニアの臨床症状として押さえておきたいのが、舌が勝手に飛び出してくる、眼球上転、よだれが止まらない、痙性斜頚などの症状です。これはドパミンD2受容体遮断薬などの投与により不随意な筋収縮により起こるとされる異常姿勢・異常運動です。

[治療]
精神科医師の診察により急性の薬剤性口顎ジストニアと診断。薬剤の内服量や内服期間は不明であった。抗精神病薬による薬剤性ジストニアの治療として第一選択薬とされるアセチルコリン阻害薬の乳酸ビペリデンを,最低用量である 5 mg 筋肉注射し、5 分後には開眼失行,眼球上転が消失し,下顎の右方偏位および開口困難の症状が著明に改善した。その後,患者の通院している精神・神経科に対して,現在の内服薬の調整や薬剤性口顎ジストニアの治療継続を依頼し終診となる。

抗精神病薬による急性ジストニアの発症頻度は 2.5%程度と言われています。
Psychopharmacology 19868840319.

また制吐剤であるドンペリドンや抗アレルギー剤のセチリジンでも起こり得る有害事象であり、プライマリ・ケアの現場でも十分に警戒すべきと思われます。
BMJ Case Rep. 2014 Jun 27;2014.
Parkinsonism Relat Disord. 2014 May;20(5):566-7.

薬剤性のジストニアには、急性のものと遅発性のものとがあり、急性のものは原因薬の中止や抗コリン薬などの薬物療法で治癒することが多いと言われていますが、遅発性のものは難治性であることも多いようです。遅発性のジストニアの場合、投与中止後も持続することがあるとされていますが、スルピリドにより発症した遅発性ジストニアの持続する顎口腔ジストニア症状を低用量アリピプラゾールが改善したとする症例報告もあります。
Intern Med. 2011;50(6):635-7.

[症例のポイント]
①顎の痛み、顎のズレの主訴で救急診療部受診、顎関節脱臼の診断で整復処置
②処置後症状再発、口腔外科へコンサル、バイタル、血液検査データ異常なし
③各所見から脱臼は疑われず。精神科通院を示唆するリストカット痕あり
④顔面の筋肉過緊張、眼球上転、開口困難よりジストニアが鑑別にあがる
⑤再度病歴聴取、統合失調症にて抗精神病薬2剤を服用中であることが判明
⑥精神科医師の診察により急性の薬剤性口顎ジストニアと診断
⑦抗コリン薬筋注にて症状著明改善

[救急診療と薬剤師の臨床推論]
「口顎部にジストニアが発症した場合,顎のずれや痛みなどの症状を訴えて歯科を受診することがある」と抄録にも記載されている通り、初診の主訴からはなかなか想像できないような、薬剤有害事象(※)が、実際には起こり得るという事は肝に銘じたいところです。また救急の現場において薬剤師が薬剤性の有害事象ではないかという臨床推論を行う事は有用だったかもしれません。薬剤師が患者の身体所見(リストカット痕)薬剤服用歴(抗精神病薬)臨床症状(ジストニア)から薬剤有害事象の可能性を提示するというプロセスまでいければ、より早期に薬剤性口顎ジストニアの診断がついたのかもしれません。僕自身はこのような現場に身を置いているわけではないですが、プライマリ・ケアの場でも特に感染性胃腸炎が流行する時期や花粉症の時期、制吐剤や抗アレルギー剤が出ていた患者から「顎の痛みがあるんだけれども…、口が開けにくい(もしくは閉じにくい)…、舌が勝手に出てくる…、首が曲げにくい…」という訴えに、薬剤性ジストニアを疑うという思考過程は必要かもしれませんね。


(※)一症例報告ですので因果関係が必ずしも確実かどうかは分かりませんが、このケースでは抗コリン薬で症状が著明改善している事、疑われる有害事象が薬理作用・病態生理学的にも考えられることを踏まえれば薬剤により引き起こされた可能性が大きいものと思われます。

2014年8月7日木曜日

構造主義薬学論-薬剤効果-

序論はこちらを:構造主義薬学論への挑戦
これは個人的に考察している薬学概論にすぎません。いまだ未熟な理論のため矛盾点も多いかと思います。今後さらなる、模索を続けていくうえで修正を加えていきますが、現時点での考察メモ代わりにまとめていきます。

[現象の定量化]

客観的薬剤効果は理論的仮説体系の中から現実の生活世界を垣間見る構造である

自然現象の数学化あるいは定量化という自然科学が打ち立てた法則や関係式はヒトの世界認識を大きく変えました。フッサールは「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の中でおおよそ次のようなことを述べています。「一度、関係式を手に入れれば、それによって、具体的、現実的な生活の直観的な世界において、経験的確実さをもって期待されうるものを、実践的に望ましい仕方であらかじめ予見できるようになる」
現象の定量化はヒトの日常経験と言う主観的な世界観を、いわゆる「関係式」により具体化することで、確実で絶対的な世界だ、という感覚をヒトに与えることに成功しました。関係式を与える自然科学は、法則が表現する定式化された世界こそ客観的なものの見方であり、日常の経験そのものはそれに比べてしまえば相対的であいまいなものだという感覚をヒトに植え付けてきたように思います。生活の便宜として現れた自然科学は、やがてある因果関係の体系化を推し進めていくことが目的となり、現実の生活世界は、この目的のために検証されるべき手段に過ぎないものとみなされていきます。
分子生物学、薬理学、病態生理学、疫学や統計学といった学問は学術的知見から得られた因果的な法則や構造を仮説として客観化してきましたが、このような学的に打ち立てられた仮説認識が、現実の生活世界における現象に必ずしも直結しないという事を何も疑わず、因果系列を客観化された仮説はいまだ多くのケースで絶対的な認識として存在するように思います。
極端に言えば自然科学は目の前の現象を捉えるため、その認識に対する仮説的補助線(≒フィクション)であるという事はいつしか認識から消えかかっています。

[真のアウトカム・代用のアウトカムと薬剤効果の二重性]
糖尿病はインスリンの働きが悪くなり、血糖値が下がりにくくなる。そうすると高血糖を招き、持続的な高血糖が細小血管合併症、ひいては大血管合併症を引き起こす。だから血糖値を下げなくてはいけない。という治療概念は病態生理学的な考えをもとにしたものです。またインスリンをたくさん出せば、血糖値が下がる、インスリンを出すためにはどういった薬剤を使用すればよいのか薬理学的に探索された化学物質が医薬品となり、実際に糖尿病治療に用いられます。

実際にトルブタミドを使って血糖値は下がるかもしれません。しかしながら血糖値は下がっても死亡は減らないどころか逆に増えてしまう可能性が示されています。
Diabetes. 1970;19:Suppl:789-830.PMID:4926376

そして厳格な血糖コントロールしても大血管合併症を予防できるかどうか明確なことは分かっていないのです。
N Engl J Med. 2008 Jun 12;358(24):2545-59 PMID:18539917)
BMJ. 2011 Nov 24;343:d6898. PMID:22115901

厳格血糖コントロールで低血糖リスクは増加しますし
Ann Intern Med. 2009 Sep 15;151(6):394-403. PMID:19620144

それにより心臓病が増えてしまう可能性もあります。
BMJ 2013;347:f4533 PMID:23900314

当然ながら低血糖自体に死亡リスクも示唆されています
Diabetes Care. 2013 Apr;36(4):894-900 PMID:23223349

糖尿病の病態生理学的知見からいえば、血糖値を下げる薬剤を用いて、平均的なヒトの血糖値を目標に血糖値をコントロールしていくというのは客観的に全く正しいやり方のように思えます。事実、糖尿病治療薬で血糖値が下がりますし、そうすると糖尿病という病態は一見して、正常を保っているように思えます。

しかしながら大事なことは、一般的に病気と言われている現象は時間とともに変化するという事です。現在の高血糖が、現時点で是正されていることに、はたしてどれだけの意味があるのかという問いは、時間と言う概念を考慮しない限り見えてきません。糖尿病と言われている人たちは、そうでない人たちに比べて、細小血管合併症や、大血管合併症を発症しやすかったりするわけです。だから糖尿病とは本来、“血糖値が高くて、将来的な合併症リスクが高い”病とでもいった方がふさわしいのかと思います。そうでもしないと、病態生理学的にうちたてられた仮説に、ヒトは“真のアウトカム”を見失います。

真のアウトカムという概念があまり重要視されないのは、学問が理論的仮説にもかかわらず、あまりにも完全な体型を打ち立ててしまったからなのかもしれません。この記述体系のなかに真理があると信じて疑わないという構造が、現実の生活世界と、学問的な理論的仮説の認識とを切り離していきます。理論的仮説は、本来、生活世界の便宜のために生まれてきたはずなので、そこには実生活における心理を含んでいません。ところが理論的仮説を整備することそれ自体を目的化してしまい、いつしか人はその仮説体系の中に現実の生活世界を垣間見るようになります。学的な仮説体系と現実の生活世界の隔たりは、代用のアウトカム、真のアウトカムという認識概念が臨機応変に分離できない構造と似ています。

学的に打ち立てられた理論的仮説から生活世界をみつめるというのは、薬物治療を考えるうえでは、本来逆なのかもしれません。糖尿病では血糖値を下げることで治療効果が得られるという認識は、病態生理学的にうちたてられた仮説体系から現実の生活世界を見つめています。また真のアウトカムを検討したエビデンスが示す臨床データでさえも学的(疫学や統計学)にうちたてられた仮説なのかもしれません。学的にうちたてられた仮説が、将来を高率で予測できるという認識そのものが医療者側における薬剤効果を規定している要素だ、という事が分かります。

構造主義薬学論における薬の効果の二重性とはすなわち、学的な仮説体系から予測された客観的薬剤効果(いわゆる効能)と現実の生活世界の中で実感できる主観的薬剤効果(いわゆる効果)のことです。真のアウトカム(死亡や合併症リスクなど人の一生における重大な転機に影響を及ぼす指標)、代用のアウトカム(血圧や血糖値など将来リスクを予測する代用の指標)という概念はいずれの薬剤効果にも含まれます。

[構造主義薬学論における薬剤効果の基本概念]
客観的薬剤効果…学術的な仮説体系に基づく理論的な効能
真のアウトカム(客観的データとして一番重要な要素)
代用のアウトカム(将来リスクの代用指標としての客観的データ)
主観的薬剤効果…現実の生活世界における薬剤効果
 真のアウトカム(主観的に実感するのが困難な要素)
 代用のアウトカム(主観的に容易に実感できる要素)

[主観的な薬剤効果]

医療を受ける人は真のアウトカムとしての効果を「感じる」ことは困難であり、薬剤効果の判断基準は代用のアウトカムであることが多い

この薬は効きますかという問いの中には驚くほど多くの示唆があります。いったいどういう効果を期待しているのでしょうか。血圧の薬であれば血圧が下がることをその薬の効果と言うのでしょうか。それとも寿命が延びることをその薬の効果と言うのでしょうか。血圧が下がると言ってもどの程度下がれば効果として認められるのでしょうか。寿命が延びたとして、いったい何日延びれば効果と言えるのでしょうか。

日本語話者は空に浮かぶ虹を見て藍色が認識できるようです。けれども英語話者には虹を見ただけでは意識できないのかもしれません。光のスペクトルは無限のはずなのに、虹を見て僕ら日本語話者は7色であると言い、英語話者は6色であるといいますが、見えている光に違いはありません。例えば黄緑だって虹の中に見出すことはできるのです。でも僕らはふつう虹を見るときに黄緑の存在は意識しません。

寿命と言う時間は年単位、一か月単位、1日単位、時間、分、秒…切れ目のない連続性の中で、いったいどこからが寿命が延びたという効果につながるのかヒトが意識の中で薬の「効果」を規定しているもの、それは極めて恣意的です。薬の効果を期待している個人個々の感覚と、現実に現れる薬剤効果が一致するかどうか、指しあたって重要なのはこういう事なのだと思います

主観的な薬剤効果を考えるうえで、実は客観的データに裏付けされた薬剤効果はあまり大きな意味を持ちません。人は薬剤効果を裏付けたエビデンスの存在と言うよりはむしろ自分の認識の中で意味のある物かどうかと言うところで薬の効果を判断しています。すなわち薬が効いたのか効かないのかは多くの場合、個々個人の文脈に依存しています。そしてその効果の尺度は虹の光のスペクトルのような連続帯の中で個人の感覚的なものによって分節されているのです。

主観的な薬の効果において、真のアウトカムと代用のアウトカムという軸は大切ですが、さらにそれぞれの効果の尺度は連続帯で存在するという事であり、人が恣意的にその尺度を効果あり、なしみたいに分節しているという、もう一つの軸が存在することに気づきます。
アドヒアランスなど物理的要因を排除すれば、薬剤の主観的な効果は以下のような3つ要素でとらえることができます。

主観的薬剤効果
←効果なし 有効性の尺度(連続帯) 効果あり
真のアウトカム




A

B
代用のアウトカム

C






連続帯の中のどこからが「効果あり」なのかはヒトの認識の中にある「意味」によって分節されていきます。医療者、患者に関わらず考察すれば、あるヒトはAという有効性が得られれば効果あり、と思うかもしれないし、別の人はBという有効性が得られなければ効果があるとは感じないかもしれません。Cという有効性さえ得られれば効果ありと思う人もいるかもしれません。
また真のアウトカムは多くの場合、自分自身でその効果を確かめることが相当困難であるという事が分かります。例えば死亡リスクが減るという真のアウトカムは客観的薬剤効果でこそ示せるものの(示せると言っても統計的に…ですが)、主観的にこれを“感じる”ことは難しい。だから現実的には多くの人が代用のアウトカムを基準に主観的な薬剤効果を判断しているという構造が浮き彫りになります

ヒトは生物学的システムという科学理論で合理的な解釈ができるような認識があるかと思えば、一方では自分の認識の中に存在する「意味」で編まれていることの方が多いという事は往々にしてあります。プラセボ効果と言うのは、体の中での生化学的反応、薬理学的反応、薬物動態学的反応と言うよりはむしろ、ヒトが作り出した「意味」によって規定されるものだと考えられます。

特に真のアウトカムに関してエビデンスと言う客観的データの前に圧倒的無力な健康食品が「効くのか」「効かないのか」という判断は、客観的なデータに基づく有効性の強弱が重要なのではなく、薬剤有効性尺度の連続帯にヒトが編み上げた『意味』が切れ目を入れているということです。ヒトによってはこの健康食品がよく効いた、とか全く効果ないよ、と言うのは、代用のアウトカム、真のアウトカムに関わらず、そのヒト個々の基礎疾患や背景因子などを含む文脈に沿った「意味」により編み上げられた認識が大きなウエイトを占めてくると考えられます。

[早めの風邪薬に見える構造]

医療を受ける人は主観的薬剤効果を重視する傾向がある

風邪をひいたら早めに病院へ行って抗生剤をもらおう、とか早めに風邪薬を飲んでおこう、と言うのはこの社会において人々が共有している共通合意であることは、その学術的な正しさを差し置けば、大きな間違えではありません。物事、認識の正しさは学術的な妥当性よりはむしろ、社会合意(意味)が編み上げるというのはいままで見てきたとおりです。
風邪のひきはじめに、早めに薬を飲むというのはどういう事なのでしょうか。パブロンを飲もうが、葛根湯を飲もうが、約4分の1の人は悪化するし、症状が変わらない人もいれば、軽快する人もいる。パブロンだろうが葛根湯だろうが大きな差は無い、という事は客観的な薬剤効果として示されています。(Intern Med. 2014;53(9):949-56. Epub 2014 May 1. PMID: 24785885

この論文を読むとお分かりいただけるかもしれませんが、風邪の症状スコアで評価したこの悪化、軽快というのは、客観的データと言いつつも、実はその半分は『意味』 で編み上げられているようにも思えます。ヒトの半分は生物学的理屈じゃなくて、『意味』で編まれているという事からすれば、薬が効くのか、効かないのか、そういう視点がはやはり大きな意味をなさないように思います。先にも述べたとおり、薬が効くのか効かないのかというのは、その尺度の連続体に『意味』が切れ目を入れているというファクターがかなり大きいのです。世間一般では薬で治療を受けることが当たり前だという社会合意が存在する中で、客観的データの有効性よりはむしろ、薬剤効果は恣意的に決められているのかもしれない、人の認識とはおおよそ誰にとっても同一に見えるような客観的薬剤効果よりむしろ自分にとってだけの「意味」である主観的薬剤効果の方が重視される傾向にある、そういったことが垣間見えます。