[お知らせ]


2014年5月30日金曜日

病院薬剤師、薬局薬剤師、その意識統一がもたらすものは何か

東京女子医科大学病院が、ハイリスク薬の抗癌剤と免疫抑制剤について処方箋発行を院内に戻したという報道が話題となっています。これに対して、日本薬剤師会の常務理事である近藤剛弘氏は“「ふざけるな」”と反論し“「一部の医薬品を院内処方にするというのはもってのほか。患者に迷惑をかける」と指摘したうえで、地元薬剤師会には「何をやっているのか」と指導力を問題視した”と報道されました。
この報道に対して、本題に入る前に僕の正直な思いをあえて示しておきます。

 “様々な取り組みを模索する余裕もないほど日常業務に追われ忙しいなら、なおのこと結構じゃないですか。今更院内に戻すなんてけしからん、なんておかしくないですか。仕事が減って助かるんでしょう。”

おそらく、なんのこっちゃさっぱりでしょう。まあこれは僕の個人的な経験や価値観に裏付けされた思いです。逆に言えば、わかるわかる、という人がいれば、僕はその人と同じような経験をしてきたという事になります。
この病院の院外処方を受けていた薬局薬剤師が地域のため、患者のため惜しみない努力をしており、患者や処方医からの評価も十分得られていたうえでの院内処方切り替えであれば「ふざけるな」という思いに至るのは当たり前の価値観だと思います。現に僕は、僕以上に、はるか僕以上に努力し、地域に貢献されている薬局薬剤師の先生方を多く知っています。僕自身のこの思いを振り返れば、このような信念対立は、おおよそ、人それぞれの経験や価値観に依存していることがはっきりとわかります。

東京女子医大病院側の主張としては“「薬物療法の高度化を背景に、保険薬局において服薬指導を行う院外処方では患者の安全を十分に管理できないと判断。抗癌剤、免疫抑制剤の服用患者には、院内処方で副作用管理と指導を充実させる方針に転換した。」”とし、“「単に院内に戻して薬価差益を出すことは、今の社会的ニーズに全く合っていない」と薬価差益狙いを否定したうえで「ハイリスク薬については、保険薬局以上に質の高いファーマシューティカルケアを実践し、薬剤師外来の展開につなげていきたい」”としています。
保険薬局では質の高いケアを実践できないと暗に主張しているようにも取れます。

そして薬事日報より以下の記事が掲載されました。
“病院と保険薬局による切迫感、危機感の違い”と言明し“同じ薬剤師でも病院と保険薬局で意識の乖離が大きくなっているような印象も受ける。このギャップをどう埋めていくかが重要であり…まずは「医療人」としての意識を統一することが急がれる。それがきっかけとなり、将来的な職能発展につながると信じたい。”としています。

これら一連の記事が波紋をよんでいます。病院薬剤師と薬局薬剤師双方が意識を統一することで、真の薬剤師のあり様が見えてくる、なんていう主張は10年前から何も進歩していないのだと思います。こういう考え方そのものが、病院薬剤師、薬局薬剤師という二元論をまねいているという事に、そろそろ気づくべきではないでしょうか。「統一された意識、薬剤師の真のあり様」みたいなものを前提とする限り、病院薬剤師の取り組みが良いのか、薬局薬剤師が貢献していることの方が価値があるのか、と言った信念対立は解決しません。繰り返しますが、絶対に解決しません。なぜならばそれは「意識を統一しよう」という名の「天下統一」を目指している構造にあります。

[さまざまな取り組みの中で生まれ行く認識の違い]
認識の違い、と言うような信念の対立は誰しもが経験することだと思います。例えば、自身の取り組んできたこと、一生懸命にやってきたことが否定されてしまうというのは本当につらいですし、自分は間違っていないと思う、そんな体験は誰しもが持っているものと思います。

薬剤師と医療への関わり方、というテーマにおいても多様な取り組みがなされています。そのような中で取り組みを模索すればするほど、多様な意見や認識が生まれ、新たな概念が提唱されます。それについて、本当に正しいのか、そうでないのか、と言ったような議論も生まれ、ここに認識の違いが浮き彫りとなってきます。認識の違いは時に、信念の対立を生み出すこともあります。ヒトの本質は他者承認を求める自己意識としての欲望であるといえますから、こういった問題はどのようなテーマであれ少なからず存在するのだと思います。

認識の正しさと言うものがはたしてどれだけ意味のある物なのでしょうか。意識の統一化を図るというのは、洗練された真の薬剤師のあり様を前提とするという事ですが、フィクションや仮説を含む事柄や概念は、それが人々の間で共有されているかがさしあたって重要で、それが本当に正しいかどうかは実はあまり問題じゃないのです。ヒトは無意識のうちに自分の欠落感やアイデンティティー不安を埋めてくれるような物語なら、すすんで信じようとする構造をもっています。そして自分が抱く概念価値観の絶対性が、他人が抱く概念価値観と相対化された時にヒトはどういった行動をするのか考えてみてください。暴力により相手を屈服させるか、ルサンチマンを抱くか。自己中心性に基づけば自ずとそうなってくるのは自明です。有史以来、ひとは宗教対立、あるいは身分制度、そういった問題に対して争いや戦争を繰り返してきました。このように自我のアイデンティティーを優位に保ちたいと思う限り、相互了解を得るためのルール作りは難しいと言えます。

今回は自分へのメッセージとして、このようなケースをどう打開していけばよいのか、考察してみたいと思います。少々長くなりますがおつきあいください。

[高次の認識へ向かう中での信念対立]
ヘーゲルの精神現象学においては「意識が知と真の弁証法的運動を繰り返しながら認識の有り様を高めていくプロセス」を、すなわち経験といいます。対象の自体存在は普遍ではないということは非常に大事だと思います。『自体が自体の認識に対する存在となる』わけですが、しかしながら、対象の新しい真だと思われていた考えも、次の発見により、これも対象についての知に過ぎなかった、ということがわかります。やや難解ですが、簡単にいえば、ヒトの対象認識は一挙に対象についての真に到達することはない。そして真と知が交代運動を繰り返すなかで、高次の認識へ向かう。という事だと思います。

薬剤師の真のあり様みたいなものも、このプロセスの途中にあるものと思うし、だからこそ、いろんな方法論で、いろんな取り組みをすればいいと思います。それに対して、みな思うことはあるし、自分こそ正しいと思うのだけれど、ヒトの価値観は完全に一致させることはできないだろうことは自明です。だからこそ自由にさまざまな取り組みを模索できるのですが、一方でこの不一致はヒト同士の対立を産み出すこともありますよね。

真の薬剤師のあり様という認識においては主体間の幻想的身体の同一性に依存します。すなわち個人の価値観や経験的に身に着けたもの、そういったそれぞれ個々のアイデンティティーに依存するのです。真のあり様をめぐる対立を解消し、知と真の弁証法的運動により、より高次の認識へ到達するためには、個々様々な人たちの認識の一致、すなわち共通了解の可能性の原理を見いだすことが肝要です

[認識の違いはなぜ生まれるのか]
認識問題における実在物の認識は多くの人から共通了解を得ることが容易ですが、概念のような事柄を共有するのはなかなか難しい。例えば目の前にあるリンゴという実在物は誰にもリンゴとして認識されます。それは手にとったり、実際に食べてみてリンゴという確信を得ることが可能だからです。ヒトは原理的にすべての物を疑うことができるという権利を持っていますが、リンゴの質感や味と言うものは多くの人にとって疑えないものとして感じ得るでしょう。実在物に関して言えば、疑えないものと疑えるもののバランスにおいて、圧倒的に疑えないものの比率が高いことが多くの人に共通了解を得られることにつながっています。

しかしながら「統一された意識」あるいは「ことがら」のような概念はどうでしょうか。あなたは「神を信じますか?」と問われ、「私は信じます」と言う人もいれば「神など存在しない」という人もいます。この差はどこから来るのでしょうか。神を確信する根拠となっている“疑えないもの”は人それぞれの価値観、経験に裏付けされたものです。先に述べたように、人は原理的にすべての物を疑う権利を有しています。ただそれは“疑えるもの”と“疑えないもの”のバランスによって一応の均衡を保っているのです。このバランスが崩壊し、“疑えないもの”と言うものがなくなってしまえば、何度も「ほんとう」を確認し続けなくてはいけなくなってしまいます。明日、自分に隕石が落ちて、死んでしまう確率は0%ではない、というテーゼが示すように、外を歩くにも、「ほんとう」に安全か何度も確かめずにはいられなくなってしまう。ヒトは“疑えないもの”と言うものを失えば強迫性観念にとらわれ、日常生活を円滑におくることが難しくなります。話題がそれましたが、概念を共有するための共通了解に必要なことは、倫理的あるいは理論的な事柄の正しさでしょうか?例えば、ある事柄が正しいのか、間違っているのかをはっきりさせ、客観的な真理を示すことが、争いをなくすのでしょうか?

[認識の違いを超えるために]
争いを避けるための一つの要因がコストです。古代中国、魏呉蜀が三つ巴の戦を繰り返してきた時代、イナゴ被害による兵糧不足が休戦をもたらしたと言います。
そして、もうひとつの要因。それはヒトどうしの関係を保つための欲望が、自我のアイデンティティーを保つことよりも大きいという直感です。夫婦喧嘩を思い出してみればわかりやすいと思いますが、価値観の違いをどう乗り越えるか、これはもう互いの関係を良好に保つためには必須の作業であることは明確です。
言い換えれば、相互了解や共通了解を産み出そうとするには、倫理的に良いことだからという理由では決して生じないのです。良いか、悪いかの二元論が、共通了解の可能性を見いだせない構造は、まさに今のべてきた構造にあります。二元論が、発信しているメタメッセージは、俺の意見は絶対間違ってない、お前の意見はあり得ない、というこの二つに尽きるのです。

認識の違いをどう超えて、より高次の認識へ向かうには、互いの認識が正しいかどうかを議論することに意味はありません。そうではなく、まずは正しい認識など存在しない、というところからスタートするべきです。ある認識が正しいかどうかではなく、認識の確信として成立している構造そのもの探し求めることが大事であり、そうすることで、なぜそれぞれの認識に違いが出てくるのかということや、どういう条件があれば広く共通了解が生み出されていくのかということが見えてくる可能性があります。僕らはみんな、自分の関心に応じて物を見てるわけで、絶対に正しいことなんてどこにもないというところから始めなくてはいけません。

大事なのは「統一された意識(薬剤師の真のあり様)」、と「個々の薬剤師が思う取り組み方」の一致の問題において、世界観や価値観が、対立した際に、その共通了解の可能性の原理の問題へと編み変えを行わなければならないという事です。薬局薬剤師の取り組み価値、病院薬剤師の取り組み価値、あるいは相互批判というメタメッセージからもたらすものは明らかです。暴力により相手を屈服させるか、ルサンチマンを抱くか。そして相互了解を得るための認識の確信として成立している構造そのもの探し求めることの困難さは以下の2点に尽きます。
・攻撃されたルサンチマンを乗り越えることの困難さ。
・みずからの『感じ』の正統性を捨てることの困難さ。

冒頭、僕自身が感じた思いを正直に書きました。これに対する反論はもちろんあるはずです。そして僕のこの意見が出てきたのは僕自身の経験から確信されたものです。そして反論される方の意見もそのかたの経験から確信されたものです。攻撃されたルサンチマンを乗り越え、みずからの『感じ』の正統性を捨てること、お互いの経験から見て取れる、薬剤師を取り巻く構造から共通了解を導き出すことこそ肝要です。これは僕自身の問題でもあります。
薬局薬剤師の質のバラツキを示唆させる報道もありました。これが意味するところはいったい何なのでしょうか。ジェネラルに対応せざるを得ない薬局薬剤師に専門性を求めることが問題なのでしょうか。(これは僕の意見ですが、ジェネラルと言うのは一つの専門性です。)
少なくとも薬剤師が急ぎ「医療人」としての意識を統一すべきだとか、自我のアイデンティティーを優位に保ちたいというメタメッセージを発信している限り、将来的な職能発展につながることは絶望的と言わざるを得ないと思います。そこには患者への目線がありません。

僕らが目指すべきはいったいなんだったのでしょうか。すべては患者とその家族のために、そして地域のために。基本となっている構造への共通認識はできているはずなんです。よりよい高次の認識へ至るためにも、あらゆる立場の薬剤師が振り返って考えてみる必要がありそうです。

0 件のコメント:

コメントを投稿