[お知らせ]


2014年2月7日金曜日

「病名」とは時間を生み出す形式である

「コトバは時間を生み出す形式である」ということをずっと考えてきた気がします。ようやくそのアウトラインが見えてきた気もします。現象そのものは時間を内包する。すなわち不変の現象は存在しません。変わっていくことが今わからないとしても、変わったことは分かるものです。例えば今の僕自身、5分後に何か変わるとすれば、顔の形とか、身長や、体重はそれほど変わるはずもありません。しかし20年前と比べれば、それは大きく変わっています。

コトバは時間を内包しないけれども同一性を孕んでいます。そうでなければ僕らは、あるモノに対して同じ価値観でコミュニケーションが取れません。「あのコップとって」といわれて、コップと言うものの同一性を認識しているからこそ、コミュニケーションが成り立つわけです。まあしかし、あのコップと言われてもどのコップだよ、と言うかんじで、時に意思疎通が取れないこともしばしばです。厳密な同一性を担保することは難しい。

時間を内包する現象をコトバで記述することは可能なのでしょうか。時間とともに変化する僕は、しかし僕であり続ける根拠はどこにあるのか。「僕の名前」は10年前も、そして10年後もおそらくは変わらないけれど、「僕」は変わっていく。もっとメタボになっているかもしれないし、この世にいないかもしれない。「名」とは時間を生み出す形式であるという事に気づかされる。

「名」とはコトバです。人の「名」以外にも様々な現象に「名」がある。病気に対してもそうで、それはしばしば「病名」といわれます。「病名」は様々な現象をコードする不変の何かであり。診断基準に支えられ、治療方針が標準化されていることも多い。僕ら医療者は、こういった病気という実態を現象としてとらえ、コトバにコードしていく。

現象そのものを記述することはとても難しい。科学は現象を記述できるかのように思いなす壮大な錯覚体系であるといいます。錯覚体系を共有することで現象はコトバによって了解可能となる。時間を含む現象を、人は時間を含まない言葉によって引き出すことで共通了解を可能にしたのです。

高血圧とはなにか、「収縮期圧140mmHg以上、もしくは拡張期圧90mmHg以上」というコトバに支えられた、不変の同一性を有するものです。僕ら医療者は、多くの場合でこの「高血圧症」という不変の同一性に支えられて、降圧薬や食事療法などと言った医療介入を取り扱います。その目的は何でしょうか。血圧を下げるためでしょうか。もちろん、脳卒中を減らし、健康寿命を延ばすこと、そして患者さんが幸せになること、それが降圧治療の真の目的であることの方が多いでしょう。血圧を下げることはあくまで手段であって目的ではありません。血圧そのものは簡易的な指標にはなりますが、最終的には健康寿命が延びたかどうか、幸せになれたかどうか、みたいなところが肝要ではあります。

「高血圧症」というコトバは時間を含まない不変の同一性に支えられたコトバではありますが、実際の患者さんに起こっている「高血圧」はコトバではなくコト、すなわち現象です。患者さんは今を生きる、すなわち時間を含むものです。したがって患者さん個々の「高血圧」と言う現象は時間を含む変なるものです。まあよく考えれば当たり前なのですが、ここまで来るのに時間がかかりました。

患者さんの「高血圧」少し時間を追ってみましょう。1年後の「高血圧」はどうなっているのでしょうか。コトバとしての「高血圧」そのものは1年後も「収縮期圧140mmHg以上、もしくは拡張期圧90mmHg以上」という不変のものです。しかしながら患者さんの現象としての高血圧は様々に変化する変なるものです。血圧がより上がって、めまいや頭痛の頻度が増えているかもしれません。あるいは「高血圧」から脳卒中をおこし、寝たきりとなってしまっている、あるいは亡くなってしまったかもしれません。脳卒中以外の原因で亡くなってしまったかもしれないですし、あるいはそもそも「高血圧」というものと無関係に亡くなってしまったかもしれません。「高血圧」は時間がたてば変わらないこともあるし、変わることもある。

コトバとしての「高血圧」は患者が死んでしまうとか、高血圧のコントロールが悪化して、めまいや頭痛がでるとか、脳卒中が起こるとか、そういった事は定義されていません。あくまでも血圧が高いという不変の同一性を定義しているにすぎません。しかし目の前の患者さんは現実を生きていますし、時間と言うものが存在していることはどうしようもない。時間を前に不変なものなど存在しません。例えば目の前にある本。5分前と後で、不変じゃないか!と思われるかもしれませんが、その5分の間で、紙を構成している原子核の周りをまわっている電子の位置がずれているかもしれませんし、そういったことを考えれば、時間の流れと言うものは常に変化を伴うものです。

「高血圧症」という同一性に支えられ、僕らは降圧治療を考えますが、同時に患者の「高血圧症」は時間を含む変なるものです。ある薬剤介入で脳卒中が減ったという結果があったとします。実際のところ、時間の流れを考慮すれば、脳卒中が減ったというよりは、脳卒中が先送りされたという解釈が妥当です。そして死亡よりも先へ先延ばしされれば、見かけ上は脳卒中が減ったことになるでしょう。「高血圧症」の時間、進行するとどうなるのか、そしてそれに対する医学的介入について、患者さんの時間に組み入れて考えたい。患者さんの時間を軸に、それを「固有の時間」と言うのだそうですが、時間を生み出す同一性こそ「高血圧症」そのものであると言えます。

実臨床で、不変の同一性を有する疾患定義は便利なものですが、同時に患者さん固有の時間を見失うことも多いと感じます。EBMの実践のなかでも患者さんそれぞれの固有の時間を軸にした思考を身につけたい。確かに活用すべき臨床エビデンスそのものは時間を生み出さない形式かもしれない。しかしこのエビデンスを動かすのは、時間を孕む個々の人、僕ら医療者です。とあるランダム化比較試験(N Engl J Med. 2008 May 1;358(18):1887-98)が示す、降圧薬でプラセボに比べて、相対的に脳卒中が30%減る、という事やそのNNTの値よりもむしろ、どれだけイベントが先送りされるのかを考える方がよりリアル。カプランマイヤーが示す、その時間のズレにどのような意義があるのか。それは患者さん固有の時間を抜きには考えられないことであると同時に、追跡期間と言う限定的な枠の中であるものの、エビデンスから時間を引き出している瞬間でもあります。


「高血圧」というコトバが時間を生み出す形式となる。そして生み出された患者さん固有の時間を軸に、エビデンスの結果から時間を抜出し考えていきたい。エビデンスの批判的吟味とその結果の適用という、一連の思考過程の中で、断片的なものだけでなく、時間とともに考えるEBMの実践。ナラティブよりもむしろ患者固有の時間を大事にしたい。ナラティブは言い換えれば、欲望にすぎないかもしれません。時間という概念を包括せざるを得ない。“患者のための医療という医療から、自由になるために。時間と共に考えることこそ、EBMの真価が発揮される。患者固有の時間を軸にする事でエビデンスの取り扱い方がもう少し自由になる。そんな気がします。

0 件のコメント:

コメントを投稿