[お知らせ]


2013年12月31日火曜日

生命と薬と

今年はわけあって、生命科学という基礎学問を高校生物から勉強しなおしました。まあいろいろあって、その勉強は次のステップへいかせることはなかったのですが、池田清彦先生の構造主義生物学と出会い、その基礎知識が大変役に立ったという側面はありました。生命科学というのはまあ大学レベルの生物学です。分子生物学や生化学、細胞生物学の基礎レベルの内容という感じでしょうか。薬学部時代も多少勉強しましたので、勉強自体は大変楽しいものでした。以下個人的な意見です。語弊がある部分も多いかと思いますがご容赦ください。

[生物と無生物]
生命というものは実に不思議です。たとえばエネルギーを取り出すシステムを考えてみましょう。人はグルコースから解糖系、TCAサイクル、電子伝達系をへてATPというエネルギーの塊を取り出します。生命はATPを利用することで生命活動を営みます。これは車に例えれば、ガソリンを燃やしてエネルギーを取り出すエンジンのようなものですが、エンジンとガソリンは独立して存在しているのに対して、生命のエネルギー生産システムは、車のエンジンに当たる部分も自己のシステム系として、自ら生み出している点にあります。すなわちTCAサイクルです。車のエンジンは不変ですが、TCAサイクルは常に変化しつつエネルギーを生み出します。このように自分自身が営みに必要なシステムを自ら作り出すオートポイエーシスというシステムが、生物と無生物の違いのような気もします。まあ様々な議論があるかと思いますが、僕はつまるところこのあたりに差があるのではないかと思います。

[遺伝子は生命の本質ではない]
生物と無生物の違い、あついは生命の本質、みたいな話で良く耳にするのが遺伝とか、遺伝子みたいな話ではないでしょうか。遺伝子とは、DNAの中でタンパク一次構造を決定している、あるいは非翻訳RNAの塩基配列を決定している領域のことといわれています。DNAに刻まれた塩基配列情報はmRNAに転写され、ポリAキャップやスプライシング等といわれる加工(=プロセシング)を経て、最終的にリボソームという細胞内小器官で、生体の基本的な部分を構成するタンパク質へ翻訳されます。このように遺伝子は生命の基本設計を担う基本プログラム、すなわち生命の本質の様なもの、あるいは生物を生み出すための設計図のように言われています。しかし実は遺伝子は道具にすぎないということが最近の研究で示唆されてきています。たとえるならば家を造る設計図が1つあっても、それを作る大工さんが違えば見てくれも全く異なる家ができることでしょう。同じ遺伝子から、生命の見てくれが異なる現象の一つとして、選択的スプライシング遺伝子という現象について少しまとめたいと思います。

[選択的スプライシングと生命の多様性]
驚くことなかれ、人の遺伝子はたかだか大腸菌の6倍程度であるといいます。そしてその数はショウジョウバエと大して変わらないとさえいわれています。遺伝子が人の高次の機能を生み出している設計図だとしても、その発現は遺伝子の特定パターンのみでは説明しきれないのはあきらかです。少なくとも遺伝子数が同程度のショウジョウバエと人は大して変わらない生命機能ということになってしまいますが、現実にはそんなことはありません。人がこのように高次な細胞機能を有するには圧倒的に多種多様なたんぱく質を作り出していることろにあります。すなわち遺伝子発現のシステム、遺伝子の解釈系が実に巧妙なのです。大腸菌のDNAはそのままRNAに転写され、タンパクが合成されますが、真核生物ではやや複雑です。基本的に遺伝子の発現はDNAから情報をRNAに転写し、それをタンパク合成系が翻訳するという流れになりますが、真核生物ではRNAが修飾を受ける段階で、多種多様性を秘めています。この修飾をプロセシングといいますが、その中でもスプライシングという工程は驚くべきものがあります。
DNAにはアミノ酸配列をコードしているエキソンと、コードしていないイントロンという配列を含んでいます。転写されたRNAも当然このような不要なイントロンを含んでいますが、スプライシングはこのイントロンを除去するシステムです。
驚くべきことに、このイントロンを除去する過程でいくつかのイントロンをわざと除去しないで残したりすることで、複数のRNAを作り出しているということが分かっています。ひとつのDNAから多数のmRNAを作り出しているという驚くべきシステムです。これを選択的スプライシングといいますが、人はひとつの遺伝情報から複数の転写産物を作り複数のタンパクを作ることができるのです。事実上、複数遺伝子としての機能を有していることになります。遺伝子を案外適当に切ったりくっつけたりして、様々な種類のmRNAを作り出しているのです。
このように大腸菌の6倍程度の遺伝子でも、人がこれほど多種多様なたんぱく質を合成できるのはこの選択的スプライシングの影響であろうと言われています。ヒトという形質を発現させているのはDNAだけではなく、その解釈系が重要です。ヒトのmRNAのプロセシングに見られるようなRNAの再構成とチンパンジーのそれはかなり異なります。たとえDNAがほとんど同じでも、人の突然変異でチンパンジーになることはないのはその解釈系の違いなのだと思います。グリフィスの肺炎双球菌の実験は遺伝子の本体はDNAであるということを示しました。しかし、遺伝そものもはDNAのみでは語れません。もうひとつ例を出しましょう。

[eyeless遺伝子とPax6遺伝子]
マウスの目(レンズ眼)を作る遺伝子であるPax6遺伝子をハエのゲノムに挿入し、発現させるとなんと複眼ができます。遺伝子そのものが形質を決めているわけではなく、大事なのはその解釈系であることはここでも変わりません。Pax6遺伝子は似たような遺伝子がハエにもあってeyeless遺伝子と呼ばれています。ほぼ相同なこの2つの遺伝子は、ハエでは複眼を作り、マウスではレンズ眼を作り出します
遺伝子はもともと存在しており、それをどう使うか、解釈系が変われば、形質は大きく変わります。「遺伝子は道具にすぎない」生物学を学ぶ中で、とても衝撃的だった一言です。
形質の遺伝と遺伝子というのは確かに分かりやすのです。そしてある程度、対応関係も外側からはあるように見えます。ただたとえばヒトの目は親から直接そのまま子供に移るわけではありません。卵細胞と精細胞からできた受精卵が卵割を繰り返し発生する過程で形成されていきます。その発生過程を遺伝子だけがすべて決めているわけではありません。アクチビンやモルフォゲン、ノード流、母性因子の濃度勾配、すなわち極性など実にさまざまな要素が個体発生に関与しているのです。分かりやすいということころに落とし穴がある。分かりにくいことをあえて分かりにくく、に本質が見え隠れする。本質とは見えそうで見えないもの。遺伝子が同じでも解釈系が異なれば、全く違う見てくれのものができるということです。

[生命の曖昧さ]
で、まあ何がいいたいかといえば、遺伝子で、事細かに生命の形質が決まっているかと思えば、まあ、実はその解釈系によって案外、適当に決まっているわけです。遺伝子がハエの解釈系では複眼を、マウスの解釈系ではレンズ眼を、ショウジョウバエの遺伝子と同じような人の遺伝子が、案外適当に遺伝子をつなぎ合わせて、多種多様なタンパクを作ってまったく異なる形質を生み出したり。
生物学は一定のルールに基づいて、その法則性を記述することに腐心せざるを得ないが、原理的に曖昧な生命現象は一定のルールで記述することはなかなか不可能なのです。その曖昧な現象が生物学そのものであり、それを基礎とする医学や薬学は曖昧性を包括せざるを得ないと僕は考えます。ゆえに、曖昧な生命現象への化学物質の作用を記述する薬理学や薬物動態学は実際のところかなり曖昧性を孕んでいると言わざるを得ません。薬理学や薬物動態学の曖昧さ。生物学的ルールは一見、物理的法則のように一定の法則が見出せるように見えますが、実は案外いい加減な要素がたくさんあって、そんな生命現象を薬という化学物質で変化させることを記述する薬理学や薬物動態学は確かに曖昧なのだと思います。すなわち、薬学部の講義で多くの時間を費やすことになる薬理学や薬物動態学を勉強することには、臨床における仮説や背景を理解するうえで必須のものでありますが、実はそれがすぐに臨床での疑問を解決するに至るということはそう多くはないということです。僕は基礎学問を否定しません。どういうわけか、僕はむしろ基礎学問をやりたくて薬学部を志しました。ただそれだけでは実臨床での疑問に答えとなる示唆は得られにくいのということは認識すべきです。医学や薬学が曖昧だということが重要なのです。そして、その曖昧性は基礎学問からはあまり良く見渡せないところに落とし穴があります。医療において○か×か、どちらかという思考がきわめて難しいということに気づくのに本当に時間がかかりました。良く考えれば当たり前なのですが、少なくとも僕には時間がかかりました。学生時代、
高血圧症血圧を下げる=○
糖尿病血糖を下げる=○
骨粗鬆症骨密度あげる=○
喘息気管支拡張=○
高脂血症コレステロールやTG下げる=○
という基本戦略のもと大学を卒業し、無事に国家試験へ合格しました。しかしどうでしょう。

気管支喘息では気管支を拡張すれば良いのでしょうか。
[長時間作動型β刺激薬を3ヵ月以上使用すると、ステロイド吸入の有無にかかわらず喘息関連死亡や気管内挿管が多い]

血糖は下げればよいのでしょうか。
[2型糖尿病患者に厳格な血糖コントロールをすると、従来通りのコントロールに比べて総死亡や心血管死亡が多い傾向にある]

トリグリセリドは下げればよいのでしょうか
[フィブラート系薬剤で心筋梗塞は少ないが、非心血管疾患死亡が多い]

[曖昧な生命現象を薬で科学すること]
『病態生理は仮説にすぎない』とても衝撃を受けた一言でした。僕が学生のころ、薬学部はまだ4年制で、そのカリキュラムも臨床とは程遠く、もちろん、臨床に力を入れている大学もあったのかもしれませんが、僕の学生時代は、分析化学、有機化学や、生化学、生理学、薬理学などの基礎的な科目の勉強に明け暮れていたような気がします。薬の作用は病態生理に基づいて記述され、それを丸暗記して進級して、国家試験へ。そんな流れの中で、生命現象と薬という関係を一定の法則でとらえようと腐心していたのだと思います。しかしながら、僕が一生懸命その法則をとらえようとしていたのは、今思えば薬の代用のアウトカムに過ぎませんでした。EBMとの出会いは、僕に薬の効果の本当の意味を考えさせられるきっかけとなったと同時に、一定の法則で生命現象をとらえることで、薬の効果について分かっていたつもりになっていたけれど、それは真の効果ではないと気づくことができた、ということでした。
薬の効果には2種類ある。僕はそうお話しすることが多いです。すなわち代用のアウトカムと真のアウトカムのことです。血圧や血糖値、コレステロールやTGは下げるけれども死亡が多いということが示唆されている研究は決して少なくない。しかしながら、これが薬学部教育の中で強調されることは少なくとも僕の時代、僕の母校では皆無でした。EBMと出会い、少なくとも僕の周りにおいてこの「医療」というのはかなり異常な事態なのではないか、と思うようになりました。また臨床医学論文は、そのような新鮮な驚きを僕に与えてくれ、もうそれを読まずにはいられなくなりました。学部で学んだ、「常識」というものが完全に打ち砕かれたのは、むしろ僕にとって快いものでありました。薬が病気の症状を改善することだけでなく その患者の生き死にということに、どのように関わってくるかという 薬の本当の効果を知らないまま、調剤していたことに気付くことができました。


おおよそ生命の進化すら、記述することが不可能なほど、それ以前に生きるとはどういうことすら一定のルールで記述できないのが生命科学です。その生命科学をベースにしている医学、薬学もその曖昧さを包括せざるを得ない。その曖昧さを臨床の末端で、どう取り扱うか。EBMが教えてくれるのは、まさにそこではないでしょうか。できることなら僕が体験したような医学論文から得られる新鮮な驚きを、多くの方に伝えて行きたいと思います

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