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2012年8月5日日曜日

自分が死ぬであろう”地域”が意識できているか?


孤独死。東京都のデータですが、孤独死は全体としてその件数は上昇傾向にあるといえます。


ただ孤独死の割合でみると、その数は上昇も減少もしていません。資料を見ても、一人暮らしの人1000人年あたりの孤独死率は平成2年から平成17年にかけて変化していないことが分かります。要するに東京都の場合ですが、孤独死数は増加しているが、割合でみると増加しているとは言えない可能性があるのです。

孤独死は問題でしょうか。「孤独死」=「一人で息を引き取る」=「悲しい出来事」なのでしょうか。難しい問題ですが、一人で死にたいと思う人もいるかもしれません。価値観の問題もあるでしょうし、孤独を寂しいとか、つらいと感じる人もいればむしろ孤独でありたいと願う人もいると思います。多種多様な価値観の中でこの問題は取り扱わねばいけないのだと感じます。

ただ、これだけクローズアップされるのはやはり地域社会において、人と人とのつながりが希薄になり、その中で孤独死というテーマを結びつけているような気がします。無縁な社会、そのような現実が孤独死を“問題”として浮き上がらせているのかもしれません。

地域という交流の場を考えたとき、居住地と職場というのは密接な関係を持っていたのではないかなと思います。現在、私の職場近くの地域商店街はその姿を消し、活気のあっただろう商店街には人の姿がなく、むなしくシャッターの閉まった店が並んでいます。

大型ショッピングモールや集合住宅がどんどん建設され、労働者は自分の居住地から離れた勤務先まで通勤します。日中は職場であわただしく時間が過ぎ、とても居住地の地域での世代間交流はままなりません。帰宅すれば、夜遅く、誰とも会話の無いまま床に着く。そんな日々が続きます。休日の買い物は自宅近くの商店街ではなく、少し離れたショッピングモールで、必要なものを必要最低限の会話で購入します。

世代間交流はおろか、同世代でも交流は確実に変化しています。インターネットの普及によるメールやソーシャルネットワークサービス。それはとてもいい面もあります。ただやはり、人と人の対面での関わり合い、とくに今自分が住んでいる地域での関わり合いは少なくなってきているような気がします。また家族内でのコミュニケーションも核家族化、少子化の影響は免れないのでしょうか。

職場でのコミュニティで円滑に人間関係を形成したとしても、その後定年を迎え、自分が住んでいる地域での世代間交流というものをあらためて考えた時、自分はどうだろうと考えさせられます。そして死を迎える、その時、自分はひとりなのか、そうでないのか。一人がいいのか、そうでないのか、今の自分には想像もできないというのが現実です。

ただ、「自分が死ぬであろう“地域”が意識できているか」どうかで、何か変わる気がしました。いずれ人は死ぬ。その時住んでいた“地域”で自分がどのようにかかわってきたかということが、孤独なのか、そうでないのか、孤独がいいのか、そうでないのか、孤独死を取り扱う時の重要な要素になる気がしたのです。そして地域にかかわる医療者として、この問題は避けて通れないことだと感じています。

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