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2012年6月26日火曜日

医療という「構造」と「副腎に求めよ」


ヒトは特定の関心にとらわれている。

歩行様式を考えてみると、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に見せられ、感じさせられ、考えさせられているということがあらためてわかります。
明治時代以前の日本人は「ナンバ歩き」 http://t.co/ipE7haQm という歩行様式をしていたという。

 私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しておりその条件が私たちの物の見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定しているのかもしれません。
そして自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に見せられ、感じさせられ、考えさせられているのかもしれないと思います。

 要するに物の見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している物は私たちが「属している集団における関心」ではないでしょうか。
物事の本質は自分の属する社会集団が無意識に排除してしまった事象の中にこそ存在しているのかもしれない。自分の判断や行動はかなり限定的な世界で働いており、そこから外れてしまっている概念を掘り下げた先に構造主義というものが見えてくるような気がするのです。

 注目している事象ではないところにこそ落ちがあるという。
これは名郷直樹先生の「副腎に求めよ」
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2006dir/n2694dir/n2694_04.htm
というお話から学んだことなのだけれども。

 私にとって「副腎」の一つは処方箋の中にありました。
処方箋の中に書かれている薬剤名。これこそが「副腎」でした。
EBMの手法でその薬剤を勉強してみると意外な落ちが現れたのです。
ある薬剤は症状は改善するけど死亡リスクは増えるとか
またある薬はほとんど効果らしきものは無かったり
そもそもこの薬剤同士の併用自体が無意味なのでは、などなど。
そう、当たり前だと思っていた薬物治療そのものに落とし穴があるとおもいます。
薬剤を服用させることが、治療なのだと確信することに落とし穴あるのです。

副腎に求めよ」という言葉が私の薬剤師人生を大きく変えたことは間違えありません。

 もう一段掘り下げると、医療という構造が見え隠れしてきます。
医療、それを科学的、非科学的という軸で考えてみると。
医療行為が科学的ではない場合に、それは宗教や詐欺と区別できるか?
ある治療が科学的根拠を失った場合、それは宗教行為か?それとも治療という名の詐欺行為か?
少なくとも、それを判断できる能力はまだ私には備わっていません。

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